天誅組の大和挙兵日譜

文久3年(1863)
8月13日(新暦9月25日)
 攘夷祈願(じょういきがん)のため孝明天皇の大和行幸が発表される。
御親征に名をかりて大和に行幸を乞(こ)い、幕府に攘夷の勅命(ちょくめい)を伝え、幕府がこれを実行しない時は、直ちに違勅(いちょく)の罪を責め、討幕に出て、一挙に王政を復古しようとした。天誅組の大和挙兵は、この大和行幸の御先鋒と自称して行動を起こしたものでる。
8月14日(新暦9月26日)
 中山忠光、吉村寅太郎、松本奎堂らが同志38名と京都の方広寺を出発。一行は、伏見から船で大坂に向かう。
8月15日(新暦9月27日)
 朝、大坂に着く。すぐに夜船で堺に向かう。
8月16日(新暦9月28日)
 早朝、堺港に上陸。狭山(さやま)を経て、河内富田林(とんだばやし)甲田(こうだ)の水郡善之祐(にごりぜんのすけ)邸に到着。狭山藩が天誅組に忠誠を誓い武具等を差し出す。石川氏の白木陣屋、戸田氏の小山陣屋も武具を差し出す。
8月17日(新暦9月29日)
 夜明け前、富田林を出発、観心寺着。後村上天皇陵及び、楠正成(まさしげ)の首塚(くびづか)に参拝して戦勝祈願をする。藤本鉄石がかけつける。
天誅組の一行は千早(ちはや)峠を越えて大和(奈良県)に入り、幕府五條代官所を襲撃、代官鈴木源内らを討ち取り桜井寺を本陣とする。伴林光平、平岡鳩平たちがかけつける。
8月18日(新暦9月30日)
 天誅組は一軍の役割を決め、挙兵の趣旨を制札(せいさつ)にして布告する。代官所の領地を天皇直轄の土地・人民とし、御祝儀として年貢(ねんぐ)を半分に減らすことを布告する。那須信吾が高取藩(高取町)へ使いに出向く。平野國臣(くにおみ)が京都の公家三条実美(さねとみ)の使者として大和五條に来る。
8月19日(新暦10月1日)
 五條中村の庄屋與市(よいち)から銀10貫を差し出させ、また、近くの庄屋にも米、道具、衣類を差し出させて村民に分配する。
古東領左衛門(ことうりょうざえもん)が「朝議急変、大和行幸中止」を知らせに来る。
夕方、紀州勢が橋本に到着する。中山忠光ら二見村(ふたみむら)まで出陣する。
8月20日(新暦10月2日)
 吉村寅太郎が乾十郎を案内として十津川郷に出向き兵を募る。中山忠光らの本隊は坂本(大塔村)に宿陣、五條には池内蔵太(いけのくらた)、安積五郎、水郡善之祐父子、荒巻羊三郎、磯崎寛ら60人が留守を守る。高取藩が天誅組に武器を差し出す。
朝廷は、天誅組の挙兵が勅命(ちょくめい)によるものでないことを公布する。
8月21日(新暦10月3日)
 中山忠光ら天ノ川辻(大塔村)を本陣とする。上田宗児(そうじ)らが高野山に参戦の協力を要請するため、紀州(和歌山)富貴村の大庄屋名迫治郎右衛門宅に行く。
幕府は大和郡山藩に追討を命ずる。
8月22日(新暦10月4日)
 橋本若狭が同志をつれて天ノ川辻の本陣に来る。
上田宗児らが高野山に行く。
五條留守居池内蔵太が高取藩に米を差し出すように督促する。
8月23日(新暦10月5日)
 高野山が天誅組に忠誠を誓う。吉村寅太郎が、十津川郷に出向き兵を集める。橋本若狭が再び天ノ川辻に来て作戦を練る。
幕府は、大和の高取・柳本・芝村・小泉・柳生・田原本の七藩に追討を命ずる。
8月24日(新暦10月6日)
 上田宗児らが高野山から帰る。
幕府は、和歌山・彦根・津(藤堂)藩に追討を命ずる。
8月25日(新暦10月7日)
 十津川郷の兵約一千人が天ノ川辻に集まる。全軍出発。夕方、大和郡山勢の出陣と聞き、天誅組は五條に勢揃いして北に向かう。本隊は重坂(へいさか)峠を越えて戸毛(とうげ)村(御所市)に進み、吉村寅太郎の一隊は風森(かざのもり)を越えて御所(ごせ)方面に向かう。
8月26日(新暦10月8日)
 高取城を攻撃。朝、天誅組は高取藩城下土佐町の西、鳥ケ峯に押し寄せ、高取藩兵と交戦するがたちまち総崩れとなる。中山忠光らは天ノ川辻に引きあげる。
この夜、吉村寅太郎らは夜襲を計画し、途中、高取藩の浦野七兵衛と一騎打ちの最中に、味方の銃弾に当たり傷を負う。
8月27日(新暦10月9日)
 吉村寅太郎らが五條に帰る。
8月28日(新暦10月10日)
 本陣を十津川長殿村(ながとのむら)に移す。中山忠光らが紀州新宮方面に出ようとして、十津川村長殿まですすむ。
吉村寅太郎らは天ノ川辻に残り防戦の計画を練る。
紀州藩柴山(しばやま)勢が五條二見村(ふたみむら)まで来る。
8月29日(新暦10月11日)
 中山忠光らは十津川村長殿に滞陣する。吉村寅太郎らは忠光の命令に応じず、ますます防戦態勢を整える。
紀州藩柴山勢が五條桜井寺に入る。同藩、水野勢が五條に来たが、まもなく橋本に引きあげる。同藩津田勢が高野山に出陣する。
8月30日(新暦10月12日)
 中山忠光ら十津川村風屋に宿陣。
藤堂藩勢が五條今井村に来る。郡山藩勢が下市に来る。
高野山三寶院(さんぼういん)の納所(なっしょ)沢田実之助が、天誅組と連絡を取ったとの理由で捕われる。
9月1日(新暦10月13日)
 中山忠光らは十津川村風屋(かざや)に滞陣。
紀州藩兵が恋野村(こいのむら)に来たが、天誅組はこれを焼き討ちする。
彦根勢が桧垣本(大淀町)に来る。吉村寅太郎は、紀州藩家老で田辺城主の水野大炊(おおい)に書面を送り天誅組義挙の大義を説く。
9月2日(新暦10月14日)
 中山忠光らは、更に南下して武蔵村(むさしむら)(十津川村)に宿陣する。
京都の朝廷はしきりに天誅組の追討を督励する。紀州勢は五條から中村に移る。藤堂勢は五條に入る。
9月3日(新暦10月15日)
 中山忠光らは武蔵村に滞陣。紀州藩勢の法福寺(ほうふくじ)組が富貴(ふき)村に来る。
9月4日(新暦10月16日)
 中山忠光らは引き返して十津川村風屋(かざや)に帰る。諸藩は競(きそ)って天誅組の追討を画策する。
9月5日(新暦10月17日)
 中山忠光らは辻堂に帰陣する。
天誅組は、渋谷伊與作(しぶたにいよさく)(常陸脱藩)を五條にいる藤堂勢の陣屋に使いに出し、挙兵の大義を説かせたが抑留される。
9月6日(新暦10月18日)
 中山忠光らは天ノ川辻に帰陣する。上田宗児、半田門吉らは、更に十津川郷に兵を募りに出かける。天誅組は、富貴村を焼き討ちする。
紀州勢が富貴口に迫る。彦根・郡山・小泉勢は下市(しもいち)方面から脇川(わきがわ)(黒滝村)道に迂回(うかい)する。
9月7日(新暦10月19日)
 大日川(おびかわ)(西吉野村)の戦。藤堂勢は五條に退く。
中山忠光らの本陣は白銀山(しろかねやま)にある波宝神社(はほうじんじゃ)(西吉野村)に移る。
紀州勢は富貴、郡山勢は下渕(しもぶち)(大淀町)、彦根勢は下市に陣をはる。
9月8日(新暦10月20日)
 天誅組は、栃原(とちわら)(下市町)に築いた土塁(どるい)を彦根勢(滋賀)に奪われ、白銀岳の本陣に退く。
郡山勢は広橋にせまる。
9月9日(新暦10月21日)
 彦根勢は迂回して丹生村(にゅうむら)(下市町)に侵入、丹生川上神社下社を焼く。
この夜、橋本若狭(わかさ)(大和)らが下市の彦根勢本陣を焼討ちし、下市が大火となる。中山忠光ら本隊は、白銀山の本陣を撤収(てっしゅう)して大日川に退く。
9月10日(新暦10月22日)
 中山忠光らは大日川に滞陣。
9月11日(新暦10月23日)
 中山忠光らは天ノ川辻に移る。水郡(にごり)善之祐らの河内勢は、天誅組を離れる。
9月12日(新暦10月24日)
 忠光らは小代(こだい)(大塔村)に宿陣。追討軍の天ノ川辻総攻撃が始まる。紀州藩は鳩ノ首(はとのくび)峠を占領する。
9月13日(新暦10月25日)
 中山忠光らは上野地に滞陣。紀州藩兵が大日川に進入する。
9月14日(新暦10月26日)
 藤堂勢が天ノ川辻に迫り、天誅組の殿軍(しんがりぐん)は天ノ川辻を放棄して十津川に退く。この日、忠光等の本陣は十津川村上野地(うえのじ)にあった。
9月15日(新暦10月27日)
 中山忠光らは、なお上野地に滞陣する。京都にあった十津川郷士が、朝廷の勅旨(ちょくし)を伝えに帰る。
9月16日(新暦10月28日)
 吉村寅太郎が上野地に着く。中山忠光らの本陣は風屋(かざや)に移る。十津川郷士勢が天誅組を離れる。
天誅組はついに十津川を退去することを決め、伴林光平、平岡鳩平(大和)らが先発する。
竹志田熊雄(熊本)が病死する。
9月17日(新暦10月29日)
 中山忠光らは小原(おはら)(十津川村)に宿陣。伴林光平らは嫁越峠(よめごしとうげ)をこえて前鬼(ぜんき)(下北山村)に宿陣する。
9月18日(新暦10月30日)
 中山忠光らは下葛川(しもくずかわ)(十津川村)に宿陣。伴林光平らは白川(しらかわ)(上北山村)に宿る。
藤堂勢、郡山勢、彦根勢、紀州勢は十津川村長殿(ながとの)に入る。
9月19日(新暦10月31日)
 中山忠光ら本隊は笠捨山(かさすてやま)に野宿する。
9月20日(新暦11月1日)
 中山忠光ら北山郷浦向(下北山村)に着く。伴林光平ら川上郷入之波(しおのは)に着く。
水郡善之祐らが十津川で危難(きなん)にあう。
9月21日(新暦11月2日)
 中山忠光らは白川(上北山村)着く。林泉寺に宿陣。伴林光平ら鷲家口を脱出。
追討軍は、まだ鷲家口には到着していない。
9月22日(新暦11月3日)
 中山忠光らは白川滞陣。この夜、伴林光平は駒塚(こまづか)(法隆寺付近)の我が家に帰る。
水郡善之祐らは進退に困り、紀州藩兵に自首する。
紀州勢は橋本に宿陣する。
9月23日(新暦11月4日)
 中山忠光らの白川出発に際し、人夫が逃げ、村役人も来ず。天誅組は持ってきた荷物を本陣に積み重ね、林泉寺もろとも焼き、軽装して出発する。夜を徹して伯母ケ峯峠をこえ、川上村の武木(たきぎ)に向かう。
彦根勢、上市(かみいち)に滞陣する。
9月24日(新暦11月5日)
 中山忠光ら本隊は、武木で最後の昼食をとり、足ノ郷峠を越え鷲家口に向かう。
追討軍の彦根勢は鷲家口、紀州勢は鷲家を固める。
鷲家口で大乱闘。那須信吾らの決死隊全員戦死する。
中山忠光、上田宗児、伊吹周吉、島浪間、半田門吉、山口松蔵、萬吉の7人は巧みに逃れ、鷲家口を脱出する。
9月25日(新暦11月6日)
 松本奎堂、藤本鉄石ら戦死。
伴林光平が田原村(生駒市)にて捕われる。
田所騰次郎、磯崎寛、安積五郎、岡見留次郎、鶴田陶司、酒井傳次郎ら6名は、丹波市付近(天理市)で藤堂藩兵に捕われる。安岡嘉助は市尾村(高取町)で高取藩兵に捕われる。
9月26日(新暦11月7日)
 前田繁馬(しげま)、関為之進(せきためのしん)の2名は、慈恩寺(じおんじ)(桜井市)にて藤堂藩兵に銃殺さ   れる。
9月27日(新暦11月8日)
 吉村寅太郎が鷲家で藤堂藩兵に銃殺される。
鷲家口を脱出した中山忠光ら一行は、大坂の長州藩邸に入り、さらに長州に逃れる。
9月28日(新暦11月9日)
 土居佐之助、安岡斧太郎らは多武峯(とうのみね)鹿路村(ろくろむら)(桜井市)で捕われ、楠目清馬は多武峯倉橋村(くらはしむら)(桜井市)で自刃する。
文久4年(1864)
2月16日(新暦3月23日)
 安積五郎ほか18名が京都にて処刑される。
元治元年(1864)
7月20日(新暦8月21日)
 水郡善之祐ほか13名が京都にて処刑される。
11月5日(新暦12月3日)
 天誅組の主将、中山忠光が長州にて暗殺される。