東吉野村で戦死した天誅組の志士たち

藤本 鉄石(48歳) 戦死

鉄石は文化13年(1816)生まれ、備前御野郡東川原村(岡山市)の人。父は岡山藩の郡奉行。15歳の時叔父藤本彦右衛門の養子となる。鉄石は和漢の学問を修め、兵学・武術を教え、和歌、史書にもすぐれていた。
 天保11年(1840)脱藩して後、大坂、京都で憂国の志士と交わり、天保14年28歳の時、吉野山、五條、十津川に入って、古来勤王の志が厚い郷人と交わり、畿内を探索、また、弘化2年(1845)には江戸に出て、諸藩の志士と交わるとともに東北地方を巡遊、32歳の時、信州、北陸、関西、九州を巡っている。鉄石は京都で梁川星巌(やながわせいがん)の教えを受け、旅行中、久留米では真木和泉(まきいずみ)、姫路では河野鐵兜(こうのてつと)などと盛んに国事を論じ合った。

嘉永元年(1848)からは、京都三条御幸町(ごこうちょう)に住んで子弟を教え、諸藩の浪士と交遊して大義名分を説いた。また、神道(しんとう)に通じ、文人画を描き山水画が得意で相当売れたという。文久元年(1861)6月、淡路島に渡り、豪農古東領左衛門宅で安積(あさか)五郎、清河八郎、平野国臣(くにおみ)らと出会い、国事を論じ意気投合した。
天誅組挙兵の時、鉄石は軍資金調達のために古東領左衛門(当時は京都に在)を訪ね、福浦元吉(もときち)と共に河内の観心寺で忠光一行に合流し、以後、総裁職として重要な位置をしめた。鉄石は常に主将中山忠光と行動をともにし、吉野の険しい山々に難渋(なんじゅう)しながら、9月24日、一行は川上村武木(たきぎ)の大西家でもてなしをうけて休憩した。鉄石はその好意に感謝して和歌三首を短冊にしるした。
大君の御たゝむきさすあむ置きてあきつはなきか秋のみ空に
八咫(やた)からす導(みちび)けよかし大君の事しいそしむ御軍(みいくさ)のため
雲をふみ岩をさくみしもののふのよろひの袖(そで)に紅葉(もみじ)かつちる
鉄石は両眼失明の奎堂に同行、鷲家口を迂回(うかい)して伊豆尾、萩原を越えて貝ノ谷を下り、9月25日夕刻、福浦元吉とともに鷲家の伊勢街道の野見谷口にあらわれた。探索中の紀州藩銃手、的場喜一郎(まとばきいちろう)を一撃のもとに倒し、紀州藩脇本陣日裏屋(ひうらや)(中尾文男氏宅横)に突入し、乱刃のもとに鉄石・元吉ともども壮絶な最期をとげた。

松本 奎堂(33歳) 戦死

奎堂は通称謙三郎(けんさぶろう)。天保2年(1831)刈谷藩士甲州流軍学の師範松本印南(いなみ)の次男に生まれ。15歳の時、尾張国沓掛村(くつかけむら)の伊藤両村(りょうそん)の塾に入門する。両村は刈谷藩主に講義するほどの陽明学(儒学)者で勤王の志が深く、奎堂も勤王の志をもつようになったといわれる。18歳の時、藩の演武場で槍術(そうじゅつ)の試合中に、相手の槍(やり)が左眼にささり失明した。
 嘉永5年(1852)1月、奎堂は藩の推薦を受けて江戸の昌平坂学問所に入った。昌平黌(しょうへいこう)は初め旗本の子弟を教育する機関であったが、寛政の改革で諸藩の子弟も集めて教育していた。昌平黌での奎堂は詩文の面で優れていた。

ここで岡鹿門(おかろくもん)(仙台藩)という友を得たが、常に個性的で先輩に追従することがなかった。嘉永六年、寮生と喧嘩して退学になり郷里の刈谷へ帰った奎堂は、過激な「藩政改革案」を提出して藩内の長老の反発を買い一時謹慎を命じられたほどである。安政2年(1855)再び昌平黌に入り、詩文掛に推薦されたり書生寮の舎長にもなっている。安政5年、奎堂は突然昌平黌をやめ江戸を去って京都に向かった。京都では頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、梅田雲浜(うめだうんぴん)らの勤王の志士と気脈(きみゃく)を通じ、近畿各地を回り勤王家をまとめようと活動した。安政5年の暮れに刈谷に帰ってきた奎堂は、翌6年名古屋の石町(こくちょう)で私塾を開いた。
文久元年(1861)9月、奎堂は妻子と離別して上京、昌平黌の親友岡鹿門と京都・大坂・明石・兵庫を巡遊し、大坂の大村藩邸で親友松林飯山(いいざん)(肥前)と再会した。そこで奎堂・飯山・鹿門三人の名をとって「雙松岡塾」(そうしょうこうじゅく)を開いた。文久2年になると尊王攘夷運動はいっそう激しさを増し、松林飯山や岡鹿門が郷里へ帰った後、奎堂は淡路の古東領左衛門を訪ねて3か月ほど滞在している。その後も長州、大和、淡路、京都を往来して尊王攘夷の志士たちと交わり、吉村寅太郎、藤本鉄石らと事をはかった。
天誅組の挙兵において、奎堂は軍令書を作成するなど軍の士気を鼓舞し、総裁職として各地で奮戦した。十津川の陣中で両眼を失明した奎堂は、最後まで駕篭を用いた。
 9月24日、奎堂は藤本鉄石らとともに一本松から小(おむら)に下り、丹生川上神社から高見川に沿って木津川、伊豆尾の笠松に上り、夜半庄屋松本清兵衛宅で休息。翌25日昼過ぎ清兵衛の案内で出発、萩原の御殿越峠(ごてんごえとうげ)の頂上まで来ると、紀州兵の銃声が聞こえ、駕篭もろとも放置された奎堂は、発見されて銃殺されたという。
 辞世「君がため身まかりにきと世の人に語りつぎてよ峯の松風」

吉村寅太郎(27歳) 戦死

寅太郎は土佐勤王党四天王の一人であるが、武市瑞山(たけちずいざん)の37歳、坂本龍馬の33歳、中岡慎太郎の30歳よりも一番若い27歳である。
 天保8年(1837)高知県高岡郡東津野村芳生野(よしうの)の生まれ。父は庄屋で吉村太平重雄、母は雪。寅太郎には3人の姉と1人の弟があり5姉弟の4番目である。嘉永元年(1848)12歳の時、寅太郎は父の庄屋職をつぎ北川村・須崎浦・下分村・梼原村の庄屋を歴任する。文久2年(1862)3月、長州に脱藩し、主に長州・京都を往来して諸国の勤王の志士たちと交わり、生涯を尊王倒幕にささげた。
 文久3年8月13日、孝明天皇の大和行幸(やまとぎょうこう)攘夷親征(じょういしんせい)の詔勅(みことのり)があった。14日、同志と共に中山忠光を主将に奉じ、行幸の先がけとなるため京都を出発した。

寅太郎はその三総裁の一人である。17日、大和の五條代官鈴木源内らを斃(たお)し、十津川郷兵一千人余りを募(つの)って高取城を攻めたとき戦闘中に銃傷をうけた。
 9月24日夕方、川上郷武木(たきぎ)で休憩した重傷の吉村も駕篭で足ノ郷峠を越えてきた。鷲家口の東約1キロメートルの烏原(からすはら)まできた時すでに戦闘が始まっていた。
 寅太郎は小村(おむら)の石舟垣内に下り、簾屋(すだれや)(笹岡初枝氏宅)で小休止した後、人夫を雇(やと)って高見川をさかのぼり、木津川(こつがわ)の庄屋堂本孫兵衛宅の土蔵にかくまわれた。追討軍の探索が厳しくなり、26日の夜になって寅太郎は堂本宅を出た。翌27日早朝、鷲家と鷲家口の村境の籠屋畑にある薪小屋に潜んでいるところを発見されて、藤堂兵の銃撃にあい無念の最期をとげた。
  辞世「吉野山風に乱るゝもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙とみよ」

那須 信吾(35歳) 戦死

文政12年(1829)高知県高岡郡佐川村(佐川町)に生まれる。父浜田宅右衛門は土佐藩家老深尾氏の家臣で、母は悦。信吾はその3番目で、幼名虎吉、諱(いみな)は重民、文武の道に明るかった。しかも医術を山崎燮堂(しょうどう)に学び、砲術を那須橘三(きつぞう)に学んだ。
 安政2年(1855)信吾は高岡郡梼原村の郷士、槍術家の那須俊平に見込まれて養子となる。家政を養父に任せた信吾は高知城下に出て武道に励んだ。槍術を山崎甚左衛門に、剣道は日根野弁治に学んだ。日根野道場には坂本龍馬も来ていた。
 信吾は身長180㎝の大男で人並みはずれた健脚の持ち主であった。梼原から高知城下まで普通二日がかりの険しい道のりであったが、いつも大剣を持ち弁当を腰にさげ、槍をかつぎ、それに剣道具をぶらさげて飛ぶように駆けたという。文久元年土佐勤王党に加盟。文久2年4月8日、土佐藩執政吉田東洋の暗殺に加わり、翌日脱藩して長州に渡る。同じ暗殺に加わった安岡嘉助も天誅組に参加している。

9月24日夜、鷲家口の決戦においては、決死隊長として彦根藩脇本陣に突入、得意の長槍を揮(ふる)って縦横に戦い、彦根兵の隊長大館孫左衛門(おおだてまござえもん)を斃したが、彦根藩士の銃丸に倒れた。遺骸は小川の明治谷(みょうじだに)に埋葬されている。
  辞世「君ゆゑえに惜(お)しからぬ身をながらへて 今この時に逢ふぞうれしき」

宍戸彌四郎(31歳) 戦死

天保4年(1833)三河刈谷藩(愛知県)に生まれ。父の弥助は刈谷藩主に仕えていた。彌四郎は活発で正義感にあふれる青年で、兵書を読むことが好きであった。嘉永6年(1853)アメリカの艦船が浦賀に来て国内が騒がしくなると、藩主は彌四郎を馬廻役に(うままわりやく)取り立てた。後に江戸に出て兵法を学び、3年後に帰国して藩兵の訓練につくした。28才の時再び江戸に出て以来、関東各地を回って勤王の志士と交わった。

文久3年、京都に行き藤本鉄石と時局を論じ、同郷の松本奎堂らと天誅組に参加し、五條代官所を襲撃、高取城を攻撃した。
 天誅組には文人あり、学者あり、政治家もあるが、彌四郎のような兵学者は少ない。彌四郎は軍の合図係となった。中でも9月7日、大日川(おびかわ)(西吉野村)の戦いの時、藤堂藩が兵600人を率(ひき)いて和田村から進撃してきた。この時、大法螺貝(おおほらがい)を手にして全身の力を込めて武者押(むしゃおし)の譜(ふ)を吹奏(すいそう)した。このため、敵兵は法螺貝の遠音(とおね)に驚き逃げ足になったという。
9月24日、鷲家口の決戦では、決死隊の一員に加わって敵陣に切り込み縦横に戦ったが、小川千代橋付近で、あやまって川の中に落ち、彦根兵の銃丸に斃れた。彦根藩士がその遺骸を調べると金貨10両に埋葬費と書いてあったという。遺骸は小川の明治谷に埋葬されている。
  辞世「今はただ何おかもはむ敵あまたうちて死にきと人のかたらば」

林 豹吉郎(44歳) 戦死

豹吉郎は大和国宇陀郡(うだぐん)松山(大宇陀町)の人。文化14年生まれ。父は兵造で鋳物師(いものし)。豹吉郎は賢しこく絵がうまかった。
 天保15年18歳の時、長崎の画家中島青淵(せいえん)が南大和に来たので、これについて絵を習った。その時、西欧人が東洋を侵略している話しを聞いて、高島秋帆(しゅうはん)に製砲の技術を学んだ。また、蘭学を大坂の「適塾(てきじゅく)」で緒方洪庵(おがたこうあん)について学び、さらに、伊豆の代官江川太郎左衛門の家僕(かぼく)となり大砲の技術を修めた。安政5年、近畿地方に戒厳令がくだると、郡山藩は豹吉郎に大砲をつくらせたという。
 豹吉郎は、天誅組の挙兵を聞いて参戦し砲技を担当した。9月24日、鷲家口の決戦では決死隊に加わり、那須信吾、宍戸彌四郎らとともに奮戦し、紙屋重兵衛宅前で、彦根兵に銃撃されて戦死した。遺骸は小川の明治谷に埋葬されている。
 明治41年11月、大宇陀町春日の慶恩寺に「贈正五位林豹吉郎君之碑」、昭和7年には「林豹吉郎誕生地之碑」(同町拾生、町福祉会館前庭)が、故郷の人々の手によって建立されている。

鍋島米之助(24歳) 戦死

高知県土佐郡潮江村(うしおえむら)(高知市潮江)に生まれる。性質が温厚であまり口数は多くないが、事にあたっては談論風発(だんろんふうはつ)、あたりを圧する慷慨義節(こうがいぎせつ)の勤王の志があった。同郷の同志楠目清馬(桜井市倉橋で自刃)と意気投合して常に進退をともにした。
文久2年(1862)、脱藩して京都に入り、諸藩の志士と交わり尊皇攘夷運動に活躍した。
 文久3年8月、吉村寅太郎らが大和に挙兵すると、那須信吾、森下幾馬、楠目清馬らとともにこれに加わった。9月24日夕、米之助は、那須信吾、宍戸彌四郎、植村定七らとともに、鷲家口突入の決死隊に加わり彦根藩陣屋を襲撃した。出店坂(でみせざか)まできた時、四方から不意に狙撃され重傷をうけた。それにも屈することなく、鷲家口を切り抜け鷲家谷一ノ谷まで逃れ、辰巳友七(西峰秀信氏宅)の納屋(なや)に潜(ひそ)んで傷の手当をしていたところを彦根藩兵に包囲され、刀を振るいおどり出て戦ったが銃殺された。遺骸は小川の明治谷に埋葬されている。

植村 定七(年齢不詳) 戦死

定七は五條近在の人。各地に転戦し、9月24日、鷲家口の決戦では決死隊に加わり、那須信吾、宍戸弥四郎らと彦根藩脇本陣(碇屋(いかりや))に斬(き)り込んだ。定七は歩兵頭(ほへいがしら)伊藤弥左衛門(やざえもん)を斃(たお)し、他の勢に加わるところを、現東吉野小学校西北詰めの小橋付近で狙撃され戦死した。遺骸は小川の明治谷に埋葬されている。
 西吉野村(現五條市)賀名生(あのう)の堀家に残されている天誅組隊士署名の中に「大和、上村貞心」とあるのが定七の本名らしい。植村貞七に関する資料はほとんどない。

福浦 元吉(35歳) 戦死

元吉(もときち)は淡路島福浦の庄屋で文政12年(1829)の生まれである。淡路島の洲本で穀物商を営んでいた。性格は豪放活発、力が強く義理人情に厚かった。
 文久元年(1861)の初夏、藤本鉄石らが淡路にきて勤王の豪農古東領左衛門(こうとうりょうざえもん)らとともに日本の現状を話し合った。元吉は鉄石らの話に感激して心ひそかに国のために尽くすことを決心し、尊王攘夷活動に傾倒していった。文久2年6月、領左衛門、元吉らは壮士を率いて京都に入った。
 翌文久3年8月、吉村寅太郎らが中山忠光を奉じて大和に兵を挙げると、これに加盟した。元吉は藤本鉄石の近くに仕えて行動し、最前線で各地に転戦して勇名をはせた。
 9月25日、大和の鷲家で藤本鉄石とともに紀州藩の脇本陣(わきほんじん)日裏屋に斬り込み、元吉は双刀を抜いて奮戦、数人を斬ったが戦死した。遺骸は鷲家の湯ノ谷に埋葬されている。
  辞世「誰がため我が身捨つるかますらをのゆく道遠し秋の暮かも」
 山下 佐吉(34歳) 戦死
 佐吉は大和国高市郡高取藩士(たかとりはんし)である。本名は安田鉄三。豪放で古武士の風格があった。藩風が弱腰でいつも幕府にへつらうことに憤慨(ふんがい)し俗吏(ぞくり)を罵倒(ばとう)するなど、ことごとに意見があわなかった。それで武術修行に名をかりて十津川に入り、乾十郎、原田亀太郎、大沢逸平(いっぺい)らと交わった。
 吉村寅太郎らの天誅組が五條に近づくと、衆(しゅう)に先んじて参加、自らの考えを変えず最後まで奮戦した。高取城を攻めるとき、累(るい)を一族に及ぼすことを心配して、母方の姓をとって山下佐吉と名のった。9月24日、佐吉は吉村を護(まも)って木津川の庄屋堂本宅に隠れた。25日夕方近くになって、吉村は鷲家口に突っ込んだ忠光の安否を気にし、消息を探ってくるよう森下幾馬、山崎吉之助ら3人に命じた。3人は山越えで鷲家谷に出たが、そこで追討軍に発見され、幾馬は赤谷で藤堂兵の銃弾により戦死、山崎は鷲家谷の酒屋弥八郎宅の前で彦根兵に捕縛された。佐吉一人は鷲家口まで逃げたが、彦根藩の脇本陣、碇屋(いかりや)の近く(南呉服店の前)で彦根兵に囲まれ、激闘の末斬殺(ざんさつ)された。遺骸は、小川の明治谷に埋葬されている。

森下 幾馬(30歳) 戦死

森下儀之助の弟で兄とともに高知城北の秦泉寺(じんせんじ)に住んでいた。安政6年、足軽雇となり高岡郡与津村(窪川町)詰(づめ)となる。文久元年、幾馬は武市瑞山の土佐勤王党に参加した。
 大和の挙兵では、兄儀之助とともに五條代官所を襲撃し、その後各地を転戦して軍功があった。負傷した総裁吉村寅太郎のそばにあってよく助けた。9月24日、重傷の吉村を護(まも)り木津川の堂本孫兵衛宅に潜んでいたが、25日夕刻、山下佐吉・山崎吉之助らと忠光の消息を探りに出かけた。3人は山越えで鷲家谷に出たが、追討軍に発見され、幾馬は鷲家の赤谷(鷲家、勝城医院上方500m)で藤堂兵の包囲を受けて射殺された。遺骸は鷲家の湯ノ谷墓地に埋葬されている。
 辞世「かねてより思ひの雲のはれしかばかかる宵(よい)よき月のすずしさ」

島村 省吾(19歳) 処刑

高知県安芸郡羽根村(室戸市)の人。安政6年、15歳で京都に出て土佐藩邸に勤めた。多感な青年省吾は、時代の風雲を感じて同志とともに天誅組の大和義挙に参加して、尊王攘夷の先鋒となった。省吾は参戦した土佐出身隊士の中で最年少であった。
 9月24日の夜、鷲家口の決戦において、忠光の本隊とともに鷲家口を切り抜けたが、かなりの深傷(ふかで)を負ったため、鷲家谷の「一ノ谷」上方の小名峠(こなとうげ)手前、清三郎の柴小屋(しばごや)で傷養生を(きずようじょう)していたが、25日昼過ぎ紀州藩に捕(とら)われた。省吾は刀一本と一両のほかは何も持っていなかったという。後に京都に送られ、文久4年2月16日、六角の獄舎で斬首された。
 島村省吾の郷里、高知県室戸市羽根の船場の東、国道沿いに「贈正五位島村省吾君墓」と書いた自然石の碑が建っている。裏面の撰文(せんぶん)の最後に「京華(けいか)よろしと雖(いえど)も何ぞ故郷に如(し)かず、一帯の山万里の白洋」とある。

池田謙治郎(22歳) 自刃

謙治郎は近江国(滋賀県)信楽谷郷(しがらきだに)士。近江国木之本の郷士安達(あだち)湖一郎(こいちろう)の甥。(おい)安達は木之本地方屈指の大地主で、京都三条木屋町に邸宅を構えて大半をここで過ごしていた。妻うたの妹が、右大臣二条斉昭(なりあき)の諸大夫(しょたゆう)(家臣)藤木甲斐守(かいのかみ)の妻であったから、堂上方の情報通として各藩から交渉があり、京都市内ではちょっとした顔役であった。安達家は彦根藩に所属する公武合体派の一員で、謙治郎はそこに居候(いそうろう)していた。甥の謙治郎が尊攘過激派に走ったのは奇異に思われるが、いかなる縁によってか彼は藤本鉄石の門下生であった。謙治郎も方広寺参集の回章をもらっていたが、その時は安達家の監視が厳しくて家を出られなかった。
 8月18日、平野国臣(くにおみ)・安積(あさか)五郎に同行して五条にきた謙治郎は、そのまま天誅組に合流して挙兵に参加し、天誅組隊士として各地でよく戦った。
 9月25日、軍用金の紛失に気づき責任を感じて谷尻(たんじり)の奥詰めの堂の向いで自刃(じじん)して果てたという。謙治郎の霊は木津(こつ)にある宝蔵寺に祀(まつ)られている。